●『夜と霧』に学ぶ

 私たちは、新型コロナウイルス(COVID-19)の蔓延という、いまだかつて経験したことのない状況下の世界に生きています。私たち人類は根絶すべく対策を講じていますが、新型コロナウイルスはそれを嘲笑うがごとく、手を変え品を変え株を変え、その都度感染を拡大させ、いつ終わりを迎えるのかわかりません。この不確実さの中、経済を含め生活の不安に晒されたり、日々の閉塞感に苦しむ方もいるかと思います。私は何ら実効的な解決策は提案できるわけではありません。しかし、もう少し耐えるために、70年以上前の第二次世界大戦中、アウシュヴィッツに代表される強制収容所で、生き抜くため実践された知恵が参考になると思います。

 

それは、オーストリアの精神科医フランクルが、自身の強制収容所体験について書いた『夜と霧』です。収容所は衣食住、どれをとっても満足とはほど遠い極限状態の中、加えて厳しい労働も強いられる場でした。しかも、この状況がいつ終わるか、収容者には予想できないのです。当時の明確な終わりは、絶望し、生への意欲を失って、ガス室に送られるという形しかなかったのです。

 

フランクルは、建築現場で働いた時、気心の知れた仲間と毎日義務として最低一つは〈笑い話〉を作ることを持ちかけました。その題材に選んだのは、いつか解放され、故郷に帰ってから起こるかも知れないことを想定したものでした。ユーモアとは「ほんの数秒でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間にそなわっている」もので、自分を見失わないための“魂の武器”になると、フランクルは言いました。

 

話は少し変わりますが、現代では“笑い”の効用は科学的にも解明されつつあると言われます。口角を上げ笑った表情を作るだけで脳が影響を受け、考え方がポジティブになるということがわかってきたのです。脳内物質のエンドルフィンが放出され、脳が楽観的になり、前頭葉が前向きに機能するのです。その意味では、無事解放され帰郷できた時の〈笑い話〉をするのは、まさに効果的だったと考えられます。

 

また、フランクルは、自然や芸術に触れる体験も生命力の充足に奏功したことを語っています。「わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。(略)何年ものあいだ目にできなかった美しい自に魅了されたのだ」と。またある時は「秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイエルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデューラー*の有名な水彩画のようだったりしたときなどだ」と。はっきり書かれているわけではありませんが、感動するという感情を忘れないことが、生存には欠かせなかったのだと思われます。

 

 

現在、私たちの置かれた状況は、強制収容所のように過酷なものと同等だとは、言えないかも知れません。それでも、極限状況で生み出されたこの“英知の結晶”が役に立つ時なのではないでしょうか。

     
 

*アルブレヒト・デューラー ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者

 

参考文献: 夜と霧(みすず書房)新版 フランクル,V.E著 池田香代子訳

 

       プロフェッショナルたちの脳活用法(NHK出版) 茂木健一郎 / NHK「プロフェッショナル」制作班