それは、周囲の可哀想という言葉掛けや想いに、当人は自分を可哀想な存在だと思ってしまったり、そこに留まらせてしまったりするかもしれないこと。
周りの人の想いは、当人の気持ちを捉えているのだろうか。自分の気持ちを楽にしたくて、可哀想だと言いたくなる気持ちはも分かるが、まずは話を聞いてからだろう。
もしかすると、歩み出せる状態なのに、周りが過去に押しとどめている可能性もあるのかもしれない。
一方で、ある支援団体では、お母さん方が働き口を求めて、自分たちで食堂を作った。その食堂の支援を求めたところ、全国から支援者が現れたそうだ。
色々な人や状況があるが、現在の支援では、相手が行きたい方向へ、後押しできるような支援が出来ればいいと、このとき思った。
こちらが“頑張って欲しい”と思っても支援は難しく、やはりその人の“頑張りたい”、という気持ちがないと、支援の意味は概してなくなってしまう。
同様に、可哀想だと思って、子どもに対して、何でも与えてしまっては、それは子どものためになりえない。小さい頃から好きなだけお菓子やオモチャを買ってもらった子どもは、大人になってどのようになるのだろうか。周りの気持ちは、子どもの成長を阻んでいるのかもしれない。
同じベクトルをもった支援。成長を見据える支援。そんな支援が出来ればいいな。
そのためには、相手のニーズを聞くこと。
ニーズが分からなければ、一緒に考えること。
気持ちが前に進むのを阻んでいるのは何か、一緒に考えること。
ボトムアップに、現場から。そんなところから、始められればと思う。
(大)